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MOTHER OF LOVE 想事 伯母の葬儀に亡き母を思い出す

  • 執筆者の写真: 店主
    店主
  • 3 日前
  • 読了時間: 4分
母の愛

TOP写真は1975年5月4日、友人たちと手作りで、

現アピセ関で執り行った両親の結婚披露宴の写真である。


2026年8月21日、父の姉、伯母のイツ子の葬儀に参列し、親戚一同が集まった。

出棺では、母の葬儀を思い起こした。


書ききれない想いばかりですが、少し記事にしておこうと思います。


伯母の葬儀については、インスタグラムにあります。



母の愛

昭和25年2月27日生まれ。

平成28年2月27日、66歳の誕生日に亡くなった。


母は気性が強く、繊細で、精神的に強くないところは弟と二人で継承してしまった。

だが、誰かのつらさを理解できる心は、豊かに生きるには大切なことだったと思う。


不妊でかなり苦労したと、よく聞かされた。

そして男系男子はうちだけで、

末松家が天皇家なら自分が皇位継承者であったことを誇りに思う。

(孫が作れなくてごめんなさい)


電卓もない時代にソロバンで、日商簿記一級を高校生で取得したと自慢していたが、

その凄さを知ったのは母が亡くなった後だった。


自分は料理に文句を言ったりもしたが、毎日手作りで頑張っていたし、

日々進歩している感じがあって凄かったね。


精神的に弱い母に負担を掛けていたのは、やはり自分だった。

そして、自分の第一の理解者は母だった。

仕事で独立したのは母の死後であり、今のこの姿を見せられなかった。

職を転々としていた自分を見て、最期までさぞ不安だっただろうと思う。


母の愛

遺影にもなったこの写真は、2010年の母の誕生日である。

Hテクノサービスの波多野君に貰った旧型のデジカメで撮影した。

ガラケーのカメラもまだまだだった時代に、

こうして鮮明な写真を残すことができた。波多野君には感謝です。


弟がスポンジから手作りのケーキを作ってくれました。

この頃にはもう母は足が悪く、歩行も困難でした。

ケガの後遺症から歩けない身体障害になり、10年生きました。


最後は良い方の足も折れた。

助けを求めて電話を貰った時、自分は精神科に入院していて、何もしてやれなかった。

近所の町医者が週一回検診に来ているのに骨折にも気づかず、

母も何も言わず、食べなくなった。

「あれ、おかしいな」と思った時には危篤でした。


足が悪くなった時には、まだ施設に入れるような年齢でもなく、

ずっと家で父親や弟が世話をしていました。


今になって自分なりに考えると、もうこれ以上周囲に負担を掛けたくない、

という気持ちも母の中にはあったのかもしれません。

騒ぐこともなく、何も訴えず、

誰にも気取られないまま弱っていき、息を引き取りました。


「しわくちゃのおばあちゃんになる前に亡くなりたい」

が口癖でした。

足が悪くなってからは、以前のような激しい気性もなくなり、

好きな音楽を聴いたり、弟が買ってくれた3DSで遊んだりしていました。


今のこのネット社会があれば、もっと母を楽しませてやれたのにな。

と、ふと思います。


母の愛

会葬礼状は、たくさん印刷し過ぎてしまいました。

わが一族オリジナルの家紋を葬儀会社に送り、礼状にも盛り込んでもらいました。


葬儀はほぼ親族のみで、ご近所の方にも手伝っていただきました。

棺には、仲間だったぬいぐるみを入れました。


葬儀の段取り中、

「お好きだった音楽はありますか?」

と聞かれた。

だが、音源を持参するような余裕など、どこにもありませんでした。


すると出棺の時、徳永英明の「レイニーブルー」を流してくださいました。

どこから音源を用意してくださったのかは分かりません。

完全なサプライズだったため、自分は号泣してしまいました。




母の愛

書きたいことは山ほどありますが、代表的なことだけまとめました。


自分の弱さも強さも母譲りで、内面に関しては本当によく似ている。

それから、寝て見る夢には今でも母がよく登場します。


命がけで生んでくれた母のためにも、気張って生きます。

またどこかでお会いしましょう。



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