MOTHER OF LOVE 想事 伯母の葬儀に亡き母を思い出す
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- 3 日前
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TOP写真は1975年5月4日、友人たちと手作りで、
現アピセ関で執り行った両親の結婚披露宴の写真である。
2026年8月21日、父の姉、伯母のイツ子の葬儀に参列し、親戚一同が集まった。
出棺では、母の葬儀を思い起こした。
書ききれない想いばかりですが、少し記事にしておこうと思います。
伯母の葬儀については、インスタグラムにあります。

昭和25年2月27日生まれ。
平成28年2月27日、66歳の誕生日に亡くなった。
母は気性が強く、繊細で、精神的に強くないところは弟と二人で継承してしまった。
だが、誰かのつらさを理解できる心は、豊かに生きるには大切なことだったと思う。
不妊でかなり苦労したと、よく聞かされた。
そして男系男子はうちだけで、
末松家が天皇家なら自分が皇位継承者であったことを誇りに思う。
(孫が作れなくてごめんなさい)
電卓もない時代にソロバンで、日商簿記一級を高校生で取得したと自慢していたが、
その凄さを知ったのは母が亡くなった後だった。
自分は料理に文句を言ったりもしたが、毎日手作りで頑張っていたし、
日々進歩している感じがあって凄かったね。
精神的に弱い母に負担を掛けていたのは、やはり自分だった。
そして、自分の第一の理解者は母だった。
仕事で独立したのは母の死後であり、今のこの姿を見せられなかった。
職を転々としていた自分を見て、最期までさぞ不安だっただろうと思う。

遺影にもなったこの写真は、2010年の母の誕生日である。
Hテクノサービスの波多野君に貰った旧型のデジカメで撮影した。
ガラケーのカメラもまだまだだった時代に、
こうして鮮明な写真を残すことができた。波多野君には感謝です。
弟がスポンジから手作りのケーキを作ってくれました。
この頃にはもう母は足が悪く、歩行も困難でした。
ケガの後遺症から歩けない身体障害になり、10年生きました。
最後は良い方の足も折れた。
助けを求めて電話を貰った時、自分は精神科に入院していて、何もしてやれなかった。
近所の町医者が週一回検診に来ているのに骨折にも気づかず、
母も何も言わず、食べなくなった。
「あれ、おかしいな」と思った時には危篤でした。
足が悪くなった時には、まだ施設に入れるような年齢でもなく、
ずっと家で父親や弟が世話をしていました。
今になって自分なりに考えると、もうこれ以上周囲に負担を掛けたくない、
という気持ちも母の中にはあったのかもしれません。
騒ぐこともなく、何も訴えず、
誰にも気取られないまま弱っていき、息を引き取りました。
「しわくちゃのおばあちゃんになる前に亡くなりたい」
が口癖でした。
足が悪くなってからは、以前のような激しい気性もなくなり、
好きな音楽を聴いたり、弟が買ってくれた3DSで遊んだりしていました。
今のこのネット社会があれば、もっと母を楽しませてやれたのにな。
と、ふと思います。

会葬礼状は、たくさん印刷し過ぎてしまいました。
わが一族オリジナルの家紋を葬儀会社に送り、礼状にも盛り込んでもらいました。
葬儀はほぼ親族のみで、ご近所の方にも手伝っていただきました。
棺には、仲間だったぬいぐるみを入れました。
葬儀の段取り中、
「お好きだった音楽はありますか?」
と聞かれた。
だが、音源を持参するような余裕など、どこにもありませんでした。
すると出棺の時、徳永英明の「レイニーブルー」を流してくださいました。
どこから音源を用意してくださったのかは分かりません。
完全なサプライズだったため、自分は号泣してしまいました。

書きたいことは山ほどありますが、代表的なことだけまとめました。
自分の弱さも強さも母譲りで、内面に関しては本当によく似ている。
それから、寝て見る夢には今でも母がよく登場します。
命がけで生んでくれた母のためにも、気張って生きます。
またどこかでお会いしましょう。




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