Vision Care 江戸の職人たちの眼を想う
- 店主

- 2025年11月24日
- 読了時間: 5分

先日、数年ぶりに眼鏡を更新。「遠近両用」に踏み切った。
ずっと使っていた OAKLEY のフレームは、惜しいけれど今回で卒業。
視界が遠くなり、作業のピントが合いづらくなったのは、認めざるを得ないサインだった。
関市の キクチメガネ さんで、1時間以上かけて検眼していただき、
仕上がったのは、思っていたよりもずっと穏やかな遠近両用だった。
初日は――
遠くを見ると世界が少し歪むような、不思議な浮遊感があった。
だが、一晩経つとすっと視界が整い、
目とレンズが“歩み寄った”ような感覚になった。
さらに極めつけは、店頭の「お楽しみくじ」。
まさかの 2,000円当選。
引き渡し前だったのでそのままキャッシュバック。
ついでに偏光のサングラスアタッチメントも2割引で手に入った。
誕生日優待より手厚い「ご町内優待」も発動した。
SNS(X)でその話を投稿したら、
キクチメガネ公式キャラ「オプトくん」がリポストしてくれた。
企業公式に拾われるとは思わず、少し照れつつも嬉しい気持ちになった。


■ 気づき
遠近に初めて触れ、
“見えるということ” が、いかに繊細で、いかに身体を支える根幹であるかを思い知った。
そして不意に、こんな疑問が浮かんだ。
「メガネが無い時代の職人さんは、どうやって老眼と戦っていたんだろう?」
刀工、鞘師、研ぎ師、彫金師、仏師……
精密作業をする人間にとって、
“手元が見えない” というのは、死活問題だ。
それでも、彼らは作品を作り続けてきた。
江戸はもちろん、それ以前の時代の職人たちも。
今、遠近レンズを前にして、
改めて気づくことがある。
道具がない時代、人は「見えない」ことをどう乗り越えたのか。
ここから先は、その話を少し掘り下げていきたい。
■ 江戸期以前の職人は、どうやって老眼と向き合っていたのか
メガネが庶民に普及したのは江戸後期。
それ以前の職人たちは、
いま私たちが当たり前に使っている “レンズの助け” を持たないまま、
精密な手仕事と向き合っていた。
もちろん、老眼は昔の人にも平等に訪れる。
でも、作品は残っている。
むしろ、名工の作は “晩年” にこそ輝く。
どうしてそんなことが可能だったのか。
■ ① 道具の工夫で「見えない」を補った
職人たちは、視力が落ちても 作業側を工夫して補った。
刻む線を濃くする
墨付けを太くする
為替(けがき)の角度を変える
ノミや刀身の柄を少し長くする
光が入りやすい作業台に変える
つまり、
目に合わせるのではなく、仕事を“見える仕様”に改造する。
これは、現代の眼鏡の思想とは真逆。
「見えないなら、道具が合わせる」のが現代なら、
昔は「見えないなら、仕事が合わせろ」という精神だった。
■ ② 光を操る
江戸の細工職は、光の扱いが非常に巧みだった。
白紙(反射板)で光を拾う
斜めから自然光を入れる
外作業で明るさを最大化する
老眼は明るい場所で改善しやすい。
それを経験で知り、
“光の環境を変える”という視力補正を自然と行っていた。
刀工の火床の赤を読むのも同じで、
光の角度ひとつで温度の見え方が変わる。
■ ③ 拡大鏡の原始形(ガラス・水晶・水)
レンズが普及する前にも、
拡大鏡の原型は存在していた。
水晶玉
ガラス玉
水を張った皿
いずれも凸レンズと同じ働きを持つ。
仏師、彫金師、鍛冶、薬師などは、
こうした “ミニレンズ” を使い、
細部を見る補助にしていた記録がある。
ただし、貴重品なので誰もが使えたわけではなかった。
■ ④ 弟子制度という“若い目”
もっとも大きな老眼対策は、
弟子制度そのものだった。
細かい線は弟子が刻む
下準備は若い目で
仕上げだけ師匠が行う
つまり、
年齢と経験を積んだ師匠は 「技術」 を、
若い弟子は 「視力」 をそれぞれ持ち寄る。
これは、刀剣界でもまったく同じだ。
研ぎも、拵えも、鞘も──
細部は若手がサポートし、
最終の“一筆”を師が入れる。
だからこそ、
名工の晩年作品に深みが出る。
■ ⑤ 経験と触覚が視力を超えていく
職人の晩年は、視力よりも 触覚の世界に移行する。
刀鍛冶は
鉄の音と手の震えで温度を読む。
研ぎ師は
砥石の抵抗で刃の状態を読む。
漆師は
刷毛の粘りで仕上がりを判断する。
視力が衰えても、
感覚の精度はむしろ研ぎ澄まされていく。
だから昔の職人は、
老眼と戦うというより、
老眼を受け入れて“眼以外”で勝負した。
■ そして現代──
自分は遠近両用という文明の利器を得た。
一晩で視界は落ち着き、
PCも遠くも、すっと見えるようになった。
昔の職人なら、
このレンズをどう思っただろう。
「こんな便利なものがあれば、もっと早く仕上がったのに」
と言うかもしれないし、
「いや、見えないからこそ、腕が磨かれたんだ」
と言うかもしれない。
技術は人を助けるが、
不便は人を鍛える。
両方を知ることで、
自分は改めて“視る”という行為のありがたさを実感した。
■ おわりに
遠近レンズは、ただの道具ではない。
“老い” に合わせて
“見える世界” を滑らかにつないでくれる、
ひとつの技術の結晶だ。
江戸の職人が、
光と道具と感覚で戦ってきた「老眼」という壁。
現代の自分はレンズでそれを超える。
どちらも、
“見える世界を守る” ための工夫であり、技である。
今日もまた、ひとつ世界がはっきり見える。
それだけで、少し強くなれた気がした。








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