自在 — 焔をくぐり抜けて
- 店主

- 3 時間前
- 読了時間: 2分

しなやかさは、焔の中でしか生まれない。
20代、30代。
社員としてもうまくいかず、借金を借金で返すような金利の地獄をくぐり抜けた。
油まみれの町工場で働き、時には刀工房にお情けで置いてもらう日々。
自分の居場所がどこにもないように思えた。
思えば、社会に出た最初の職場もそうだった。
親のつてで大手に就職したが、職場の女子たちとうまく馴染めず、
早々に辞めてしまった。
今なら「みんな何かを抱えていた」と思えるが、
あの頃の自分はまだ無垢で、世界を単純に信じすぎていた。
23歳のころ、心が軋み、世界の輪郭がゆがんだ。
人の声が遠くに響き、時間の流れが他人事のように感じられた。
けれど、そんな中でも「刃の音」だけは確かだった。
それだけが、自分と現実をつなぐ細い糸のように思えた。
2018年、ようやく独立した。
最初は小遣い稼ぎのような仕事だったが、
ある夜の夢に、見覚えのない炉と、懐かしい気配の皆がいた。
目覚めてしばらく、その光景が頭を離れなかった。
やがて現実のほうが夢に追いついてきて、
その皆と仕事をする日が訪れた。
あの夜の焔が、いまも自分の炉の奥で揺れている。
振り返れば、あの不遇の年月がなければ、
今の自分は鍛えられなかった。
借金も、油も、孤独も、
そしてあの心の歪みさえも、
自分を焼き入れる焔だったのだと思う。
いまは、物質的にも精神的にも不足を感じない。
どこにも無理がない。
それを「自由」と呼ぶよりも、「自在」と呼びたい。
自由が“解き放たれること”だとすれば、
自在は“解き放たれたあとも、自らを操れること”だ。
刃を打つように自分を打ち、
折れも曲がりも受け入れて、ようやく得た静けさ。
不自由を経てこそ掴める、穏やかな自由。
それが、いまの自分にとっての「自在」だ。
— 想事・自在界にて/末松 彰







コメント